ちはやふる第6話 感想


ちはやふる 第6話 『けふここのへににほひぬるかな』より引用


奏は和服が好きで弓道部に入ったが部活に馴染めずにいた。あるとき偶然ちはやと出会ってかるたの話をする。すると興味をもたれたらしく、かるた部に誘われる。その申し出を断るのだけれど、図書館や自宅にまでやってきて教えて欲しいと懇願される。しぶしぶかるたの歴史について語る奏。彼女と話した後、一人になってから弓道部員の言葉を思い出す。

「いつもひとりで古文の本読んでますけど、古典オタク?」
「生まれる時代間違えたよね?」


弓道部員の嘲笑と嫌な言葉。それとは対照的に目をキラキラと輝かせて、自分の話しを聞いてくれるちはやを思い出す。

「カナちゃん教えて!もっと教えて!」


『和服が好きで、和服を着たいから弓道をする』という自分のしたいことを続けるのが幸せなのか、それとも『自分を必要とする人のためにかるた部に参加する』ということが幸せなのか。どっちかを選ばないといけない場面。


ちはやふる


自分がしたいことをしていて、それが必要とされたら幸せだってことは分かる。けれどこの最適なバランスをとることはとても難しくて、したいことをやっていても必要とされなかったり、したくないけど誰かに必要なことだったりして、バランス良く両立することが難しい。


自分はこれまで『そこそこ自分のしたいことで、誰かに必要とされるなら良い』と漠然と考えてきたし、それは実際に上手く回っていたように思えた。けれど、自分が本当にしたいことには近付かなかったし、よくよく考えてみると必要とされてるのは自分じゃなくて誰でも良いんだと感じた。


ここで奏なら弓道部を辞めたって誰も困らない。部員数も足りているし、試合に出られる実力があったとしても補充要員もいるから奏である必要性はない。一方で、ちはやのいるかるた部は人が足りないから部員としても、試合に出る要員としても必要だ。そして人数の問題以上に、ちはやは自分を必要としてくれている。あなたじゃなきゃダメだよと言ってくれる。弓道部は辞めたって誰も何も言わないだろう。だからやっぱりかるた部を選ぶんだと思う。


したいことをするのは正しい。必要とされることも大事だ。


でも、この必要とされるという言葉の中身はよく考えないといけないんだと思う。目の前にいる自分のことを何ひとつ理解していないのに必要だと言われたって信じられないだろうし。辞めると伝えたときに、あなたが必要なんだって引き止められるくらいは相手にとって必要であって欲しい。


厄介なのは、自分から見て全く見知らぬ相手にとって必要だってことも実際にあるから、単純に誰からも必要とされてないから意味がないとは言い切れないんだけれど。


物語での奏はちはやの必要に応える代わりに自分のしたいこと、和服を着たいってことを条件にかるた部を選んでいた。人に必要とされながら、自分がしたいことも実現させる。これはそう簡単にはいかないけれど、目指して生きる価値はあるんだと思う。
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