感動、感動って簡単に言うけど


世の中のほとんどの人は、物語を見て感動しても「それは作り物の世界だからだよ」と口を揃えて言う。


次の日には「あの仕事は嫌だよね」とか「あの人変だよね」と愚痴を言い合い、お互いにお互いを慰め合いながら毎日を過ごしている。いつも自分が生贄にならないように監視と共有に切磋琢磨している。そんな姿を疑問に思って「物語を見てさ、何か思わない?」と聞いてみると「だってあれは物語でしょ?夢と現実は違うでしょ?」と怪訝そうな顔をされる。


どうも一般的な人たちは物語に感動を憶えたとしても、自らの頭で考えたり何かを変えてみようとする気もないみたいだ。すぐに夢と現実に切り分けて、そこで思考停止してしまう。そこで自分が何か行動してみせると「夢の見すぎだ」とか「現実は甘くないよ」と言われ嘲笑を浴びせられたりもする。


それは恐怖心から生まれたイメージで、実際はそうじゃないかもしれない。けれど社会に出て会ったことのある人間のほとんどは否定的だった。それはもしかすれば親であってもそうだった。

「感動は創造の作り物のお話で、現実はつらく厳しいのが当たり前。
だからお互いに慰め合って生きましょう」


それが今を生きているわたしたちの共通認識だ。その共通認識から外れてしまうと、ある人からは「変わり者だね」と言われ、また別の人からは「何を考えているのか分からない」と評され異端者扱いされてしまう。


でも現実はそれがつらく厳しいと思うのなら誰かが人と違うことをして、変えようと思わなきゃ何も変えられないでしょ。物語はそれこそ夢や幻で現実には起こり得ない叶わないことを描いていると言うのなら、わたしたちは何に感動して涙を流しているんでしょうね。


自分の近くを探してみれば必ず誰かの小さな夢が無数に存在していることに気付くと思う。また、それを潰してしまう大きな障害がある。そんな場面を目の前に見せても無関心だったり、時間もなく忙しいふりをして「まあ、何とかなるよ」と言葉で励ますだけで終わる。そこに誰も手を差し伸べようともしないのだから、人はみんな本当に一人きりだ。


世の中には耳障りのいい言葉や、誰かのもっともらしい言い訳、あるいは誰かの立場にとって都合の良い建前に溢れていて、それに慰められている人も多い。そしてそれぞれが個人的な、自身の幸せに対してしか関心が向いていない。

「現実なんてそんなもんだろ、自分も他人も。誰もかもがそうやって生きてるんだよ」


そう独善的に決めつけて生きるのはとても楽だけれど、悲しいじゃない。悔しいじゃない。だから自分だけはと抵抗してみる。


ここがスタート地点。


ここに立ってみて、脚本家や漫画家、イラストレーターとか、言葉や物語を伝える何者かになるための入口になるのか、それとも、あいつはただの夢見がちな馬鹿だったねと笑われて終わるのか。どうなるのかは分からないけれど、できる限りのことはやってみようと思う。周りの小さな夢を叶えながら自分のための夢も叶える。それは自分がこの世界で人間らしく生きるために考えた生き方なんだから。

「イラストなんて儲からないよ」
ラノベで生活なんて出来ないよ」
「漫画家なんて競争率高いし大変だよ」
「脚本なんてもっと難しいよ」


そんなもっともらしい言い訳は、今その立場にいる者たちが自身の立場を脅かす後継を育てないことで自らの保身を考えているだけの言葉じゃないか。

だから、絶対に大人を信じるな!


自分にとって都合がいいだけの誰かの言葉を真に受けて、それを言い訳にしてはいけない。本当にダメなのかどうかは自分で確かめないと分からないようにできているし、人生はやり直しが効かないんだから。


自分の人生は奴らのための人生じゃない。
70120